乗りつぶしをメジャーに/時刻表2万キロ

なごり雪舞う名松線伊勢奥津駅にて/昭和59年3月 ■宮脇俊三■

 鉄道完全乗車、いわゆる“乗りつぶし”がメジャーになったのは宮脇俊三の力でしょう。第5回日本ノンフィクション賞、第9回新評賞に輝いた「時刻表2万キロ」(昭和53年刊)。この本のおかげ。国鉄が乗りつぶしの証明書を発行する「チャレンジ20000キロ」キャンペーンが始まったのも、この後だ。

時刻表2万キロ

 『昭和50年正月、これまで乗った路線を計算すると1万8000キロを越えていた。あと2700キロで2万キロの完全乗車になることが分かった』。ここから、乗りつぶしの旅が始まる。2年半のドラマだ。未乗区間は末端の赤字線。一日数本しか列車が走らないところが多い。

 そんな鉄道へ週末を利用して通う。『A寝台を奮発して翌日六〇キロばかり未乗線区を片づけても、国鉄全線の〇・三パーセントにしかならない。金と時間のかかることなのである』。それでも、乗るのが愛好家だ。末端の盲腸線にこそ、鉄道の魅力がある。ロマンがある。哀愁がある。

 宮脇は上野発福井行に乗る。『時刻表を開いて窓外を眺めながら現物と照合するのは楽しい作業である。ダイヤどおりならあと三〇秒以内にすれちがうはずだぞ、と緊張していると、ぷわあーという警笛とともに窓外を走り去る。気持ちのいいものである』。この気持ちが分かるか、分からないかが愛好家への分かれ道ではないか。

 大御所阿川弘之などは線路脇のキロポストから、スピードを測りだす。ここまでいくと、尊敬のきわみだ。そんなことをしなくてもいい(笑)ように、新幹線500系では客室の出入口の液晶モニターに「ただいま300キロ」の文字が出るようになった。うれしいかぎりだ。

 富山駅に降りた宮脇は、高山線神岡行きを待つ。入線した列車の後部六両を切り離して、前の三両が神岡行き、後ろの三両が猪谷行く、というややこしさ。『時刻表には車両運用についての記載はないが、愛読者だから、書いてないことでもだいたいの見当はつく。しかしこの神岡行の運用は奇想天外で、私の見当の及ぶところではなかった』よくあります。

 列車に乗り遅れてつぶやいた言葉も印象的だ。『国道をとばしていく車がうらやましく憎かった。道路や車にはダイヤグラムがない。勝手放題に走りまくっている』。鉄道、時刻表の魅力はその逆なのだ。決められたダイヤを走る。不便な点もあるが、それが魅力なのだ。

 昭和52年5月28日、足尾線で国鉄全線完全乗車する。その後はどこへも行かなくなり、時刻表の新刊を買い忘れた月も。カツを入れたのは、気仙沼線の開業。すかざす、乗りに出る。

 『阿佐線、石勝線、三陸縦貫線など、いったいいつ開通するのだろう。そして青函トンネルは? 四国への鉄道併用橋は?…
 …乗りたい! と思う』

最長片道切符の旅

 宮脇が、その後も乗り続けているのはいうまでもない。「最長片道切符の旅」(昭和54年刊)では、北海道・広尾から鹿児島・枕崎まで一筆書きにもチャレンジした。宮脇の旅は1人旅のスタイルが多く、レールウェイライター種村直樹が、仲間と旅するのとは対称的。

 一度、日豊線の普通電車で、テレビ番組の取材らしい宮脇氏と乗り合わせた。ぼそぼそと語る姿が、ぼくとつとした人柄を感じさせた。2003年2月26日に急逝。もう一度、どこかのローカル線で出会いたかった。本当に残念でならない。


 宮脇俊三 1926年~2003年、埼玉県生まれ。東大卒。元中央公論編集長。「汽車旅12カ月」「終着駅は始発駅」「線路のない時刻表」「鉄道旅行のたのしみ」鉄道紀行多数。小説「殺意の風景」で泉鏡花文学賞。



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