鉄道紀行は百間にはじまる/阿房列車

国鉄D51 ■内田百間■

 紀行作家の原点は松尾芭蕉かもしれないが、鉄道紀行作家の原点は内田百間(うちだ・ひゃっけん M22/1889-S46)だろう。汽車旅は百間先生の「阿房列車(あほうれっしゃ)」に勝るものはない。「阿房」に始まり「阿房」に終わるのだ。

 レールウェイライターはすべて、百間以降である。鉄道紀行を文学に高めたのは(言い過ぎかな。百間先生は「単に汽車がすきなんだ」と言われるかもしれないけれど)百間先生の力。ぜひ、読んでね。

阿房列車(旺文社文庫)

 阿房列車は『なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行つて来ようと思ふ』で始まる。昭和25年のことだ。

 『…毎晩お膳の後で汽車の時刻表を眺めて夜を更かした。眺めると云ふより読み耽るのである。…くしやくしやに詰まつた時刻時刻の数字を見てゐるだけで感興が尽きない。こまかい数字にぢつと見入つた儘(まま)で午前三時を過ぎ、あわてて寝た晩もある』。さらに列車に乗る時は『自分の乗る列車の頭から尻まで全体を見た上でないと気が済まない』のだ。

 『…… 
 「大阪へ行つて来ようと思ふのですが」
 「それはそれは」
 「それに就いてです」
 「急な御用ですか」
 「用事はありませんけれど、行って来ようと思うのですが」
 「御逗留ですか」
 「いや、すぐ帰ります。事によつたら著いた晩の夜行ですぐに帰ってきます」
 ……』。

   世間がどう思おうと、汽車に乗るのが目的なのだから、正しい鉄道ファンの姿である。
 こういって、鹿児島、東北、奥羽と全国へ「阿房列車」を走らせるのだ。阿房列車(昭和27年刊)目次
   特別阿房列車(東京、大阪)
   区間阿房列車(国府津、御殿場線、沼津、由比、興津、静岡)
   鹿児島阿房列車 前章(尾ノ道、呉線、廣島、博多)
   鹿児島阿房列車 後章(鹿児島、肥薩線、八代)
   東北本線阿房列車(福島、盛岡、浅虫)
   奥羽本線阿房列車 前章(青森、秋田)
   奥羽本線阿房列車 後章(横手、横黒線、山形、仙山線、松島)

第2阿房列車

 第二阿房、第三阿房と続く、続く。その上で、『用語の上で気になることがある。第二、第四、第六と云う様に偶数の数字を上に冠した列車番号は、時刻表では上り列車に限ったものなので、それだけで第二阿房列車を上り列車だと思はれては困る』とユーモアの中にさりげなく、愛好家ぶりを示す。

 百間先生以降は、後継者を自認する阿川弘之、斎藤茂太(ヒコーキが中心だが)さらに、「時刻表2万キロ」で乗りつぶしをメジャーにした宮脇俊三、毎日新聞記者から転身した種村直樹、と続く。


 内田百間 小説家、随筆家、明治22年、岡山市生まれ。本名内田栄造、百鬼園とも号す。6高、東大卒。夏目漱石門下、「冥途」「ノラや」「贋作吾輩は猫である」「百鬼園随筆」など。昭和46年没。映画「まあだだよ」のモデル。


 改訂2000.10.14

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