日豊本線 全通までの変遷
○――○吉松ルート
大正12年12月15日全通
○――○現在ルート
昭和7年12月6日全通
小倉 門司港
―――――○――○
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| M28.4.1
――◎行橋
\ M30.9.25
◎柳ケ浦
\ M42.12.21
○宇佐
|M43.12.15
○中山香
|M44.3.22
○日出
|M44.7.16
○別府
|M44.11.1
―――――◎大分
/|T3.4.1
/ ○幸崎
/ |T4.8.15
/ ○臼杵
|T5.10.25
◎佐伯
|T9.11.20
○直川
|T11.3.26
○重岡
|T12.12.15
○市棚
|T12.7.1
○日向長井
|T11.10.29
――――――○延岡
|T11.5.1
◎南延岡
|T11.2.11
富高(日向市)○――○細島
| T10.10.11
|T10.10.11
○美々津
杉安○ |T10.6.11
\ ○高鍋
妻○ |T9.9.11
\ |
佐土原○―○広瀬(佐土原)
(西佐土原)|T2.12.25
◎宮崎
○ |T4.3.20
\ / ○南宮崎
◎人吉 T4.3.20| \
\ ○清武 \
\ M42.11.21 |T5.10.25\
吉松◎ ○青井岳 ○―○
/ \ T1.10.1 |T5.3.21 |
○ 小林○ ○山之口 |
| |2.5.11 |T3.8.15 |
| 谷頭○ ○三股 |
| T2.10.8\ /T3.2.11 |
| ◎都城 |
| |T12.1.14 ○
| ○西都城 |
| S4.4.28/ \ ○
| 財部○ \ |
| |S6.11.1 ○ ○
| ○大隅大川原\ |
| |S7.12.6 \ |
| ○霧島神宮 ○ ○
| |S5.7.10 \/
○ ○国分 ◎志布志
\ /S4.11.24 |
○隼人 \ ○
M34.6.10| \ |
◎鹿児島 ○海潟温泉 ○
T2.10.11| \ /
―――○西鹿児島 ○―○
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本州の鉄道がイギリスから技術を導入し、北海道がアメリカを模して建設されたのに対して、九州はドイツから学んだ。1889年(明治22年)12月11日、博多~千歳川間開業に始まる。
1909年(明治42)鹿児島線全通
鹿児島本線が全通したのは、1909年(明治42年)11月。八代~人吉~吉松(肥薩線)を経て鹿児島に至るルートだった。人吉~吉松間には急勾配の緩和のため、ループ線が設けられた。この時、宮崎県の一部(真幸)を通過した。現在の水俣~川内ルートは1927年(昭和2年)10月開通。
豊州本線、1911年(明治44)大分へ
これに対して、日豊線の開通は遅れた。1892年(明治25年)の鉄道敷設法予定線には『福岡県下小倉ヨリ大分県下大分宮崎県下宮崎ヲ経テ鹿児島県下鹿児島ニ至ル鉄道』として、東九州の幹線に定められていたのですが…。
全国に必要な路線が多く、なかなか予算の順番が回ってきません。(※建設予定の1期線に入るのは、明治41年=宇佐~大分▼明治43年=宮崎~吉松▼明治44年=大分~佐伯▼大正5年=佐伯~宮崎)
線路は人の多いところに敷くのだから、下の数字を見れば、当然といえば当然なのだが…。
第1回国勢調査(大正9年)の人口比較
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◆鹿児島線沿線
門司 8.6万人
小倉 4.9万人
八幡 10.3万人
戸畑 3.4万人
若松 4.9万人
福岡 12.3万人
大牟田 6.4万人
久留米 6.2万人
熊本 13.0万人
鹿児島10.3万人
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◆日豊線沿線
小倉 4.9万人
別府 2.9万人
大分 4.3万人
宮崎 3.4万人
都城 2.6万人
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勝負になりません。西九州(鹿児島線沿線)の人口に対して、東九州の希薄さ。鉄道敷いても、もうかりません。日豊線建設が後回しになるのも分かります。
それでも、九州鉄道時代の1895年(明治28年)4月に行橋まで開通。行橋~柳ケ浦までは豊州鉄道が1897年(明治30年)9月に建設。その後は国の手で順調に延ばしたが、立石峠の難所越えに苦心し、中山香に達したのは明治43年12月。その後は順調に延び、1911年(明治44年)11月、大分に達した。「豊州本線」となる。
吉松から東へ
南側は鹿児島線(現肥薩線)の吉松を起点に、1911年(明治44年)「宮崎線」として東へ工事を進めた。距離の短い宮崎直通か、主要都市で陸軍駐屯地の都城回りか、で争い、軍事的見地から都城回りになった。小林には1912年(大正元年)10月1日、都城には1913年(大正2年)10月8日に達した。
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宮崎県営鉄道の建設
県都の鉄道はいまだに足踏み状態だった。1892年(明治25年)に「鉄道敷設法」ができると、日向鉄道協会が発足。明治39年には日向鉄道期成同盟を組織し、運動を展開してきたが、国の答えはそっけない。県や期成同盟は幾度も、大分宮崎鉄道を国に請願するが、ことごとく蹴られる。明治43年ようやく、吉松~宮崎が認められた。宮崎大分間は今回もダメだった。
鉄道の宮崎到達まで待っていられないと、宮崎県は自前で、鉄道を建設する。国内でもまれな、「宮崎県営軽便鉄道」の誕生だ。軽便法ながら、軌間は1067ミリ規格で、宮崎~福島(のちの広瀬、現在の佐土原)~妻間の鉄道建設に着手した。1913年(大正2年)12月、宮崎~福島(広瀬)間を完成させ、営業運転を開始。翌年には妻まで順次開業した。
青井岳を越えて
都城~宮崎間、中でも青井岳付近は難工事。宮崎側からも工事を行い、清武まで完成したため、宮崎県営鉄道に貸し、1915年(大正4年)暫定開業した。青井岳~山之口が貫通し、1916年(大正5年)10月、宮崎まで完成した。「宮崎本線」となる。県営鉄道とも連携し、福島、妻まで連絡運転した。
日豊北線、南線工事始まる
大分側も佐伯まで、1916年(大正5年)10月に完成しており、残る区間は佐伯~宮崎。同区間は「日豊線」と命名され、大分、宮崎県側から工事が始まった。佐伯から延岡へ「日豊北線」、宮崎から延岡へ「日豊南線」として工事。宮崎側は県営鉄道を買収し、福島(広瀬)を起点に北へ工事を進めた。
1920年(大正9年)9月に高鍋、1921年(大正10年)6月には美々津へ。同年10月には富高(日向市)に達し、同時に細島軽便線(富高~細島、軌間1067ミリ)も開業した。南延岡には1922年(大正11年)2月、延岡には同5月に達した。営業区間は宮崎側が「宮崎本線」、佐伯側が「豊州本線」に統合。
1923年(大正12)年12月15日、日豊本線全線開通
延岡~佐伯間こそが、最後の最後の大工事だった。宗太郎越えの難工事が待ち受けていた。当初、鉄道省では1923年(大正12年)10月のダイヤ改正に間に合わせるつもりだったが、崩落などで遅延し、最後の重岡―市棚が完成したのは大正12年12月15日だった。ここに小倉―大分―宮崎―吉松を結ぶ東九州幹線が完成し、「日豊本線」と命名された。
=※都城~国分(→隼人)~鹿児島の現在ルートでの日豊線開通は1932年(昭和7年)12月6日=
改訂2001.12.15
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