日豊北線
北線建設
佐伯~延岡

第37帝国議会で予算成立

 日豊線は明治25年の鉄道敷設法予定線で『福岡県下小倉ヨリ大分県下大分宮崎県下宮崎ヲ経テ鹿児島県下鹿児島ニ至ル鉄道』として、建設が進められ、順次開業。大正5年には北は小倉―大分―佐伯まで、南は鹿児島・吉松―宮崎―広瀬(佐土原)まで通じた。(※当初の計画線とは、若干の変更がなされている。北では有力案だった大分―犬飼―三重―小野市―延岡ルートが、大分―臼杵―佐伯―延岡に変更。南も吉松―小林―高岡―宮崎ルートが吉松―小林―都城―宮崎に。いずれも政治的国防的配慮で、鉄道の距離は延びるが、都市を結ぶルートとされた)。残る区間、佐伯―延岡―広瀬が最後の工事となる。大正4年末に開会した第37帝国議会(大隈内閣)で、宮崎佐伯間鉄道として予算の成立(成立は翌5年)をみた。延岡を境に佐伯~延岡を「日豊北線」(大分建設事務所所管)、延岡~広瀬を「日豊南線」(鹿児島建設事務所所管)として工事に入った。

★日豊北線(佐伯~延岡)
 T5.10.25
      区間   着工  竣工  営業開始
 佐伯  ┓             ┓
     ┃             ┃
 上岡  ┃1工区 T6.3.25 T8.9.1  ┃T9.11.20
     ┫             ┃
 直見  ┃             ┃
     ┃2工区 T6.4.24 T8.12.12 ┃
 神原  ┫             ┫
 (現直川)┃3工区 T6.9.1  T9.11.12 ┃T11.3.26
     ┫             ┃
 重岡  ┃4工区 T6.12.16 T11.6  ┫
     ┫             ┃
     ┃5工区 T7.2.15 T12.6.10 ┃
 宗太郎 ┫             ┃T12.12.15
   (信)┃6工区 T7.8.25 T12.12.15┃
     ┫             ┃
     ┃7工区 T8.2.15 T11.1.31 ┃
 市棚  ┫             ┫
     ┃8工区 T8.6.1  T10.8.31 ┃T12.7.1
     ┃             ┃
 日向長井┫             ┫
     ┃9工区 T8.7.1  T10.9.13 ┃T11.10.29
 延岡  ┛             ┛
 
 T11.5.1
佐伯から延岡へ

 日豊北線は佐伯(大分県南海部郡佐伯町)~延岡(宮崎県東臼杵郡延岡町)を結ぶ鉄道として、大正5年4月ルート選定に入る。まず、山間線(佐伯―上岡―神原―大原)、海岸線(佐伯―堅田―森崎―古江―浦尻)、海岸線2(~木立―蒲江―茶屋ケ鼻、長井峠)の比較測量を行い、山間線を採用した。後年“宗太郎越え”と呼ばれるルートだ。

 線形は佐伯から上岡を過ぎ、番匠川を渡り、直見、神原から山間部に入り、上り勾配。多くのトンネルを掘り、分水嶺を越え重岡に至る。ここから下り勾配で、宗太郎信号場へ。県境からは鐙川に沿い、市棚に至り、北川を横断して、日向長井を経て、和田越を抜けて延岡に至る。

山線案を採用

 山間線には縦貫する国道(現在の国道10号)があり、交通が便利なのと、海岸線に比べ建設費を160万円節約ができることが理由だった。

 佐伯線建設以前、大分~延岡間の自由なルート選定なら、犬飼回り、佐伯回り、など完全な選択枝があったが(※個人的には当初案の大分~犬飼~三重~小野市~延岡のルートが、距離も短く、一番だったと思う。※大分県臼杵市など自治体の強い運動で大分~佐伯は海岸線案に決まった、という)
 鉄道工事が佐伯まで進んだ後で、延岡までの間は、山間線が一番無難なルートだったと思う。

9区間に分け、大正6年工事開始

 佐伯延岡間を9区に分け、大正6年3月に第1工区佐伯―切畑間から建設工事に入った。大正3年に始まった第一次世界大戦の影響でちょうど工事の進みはじめたころから、物価が高騰。作業員の生活を直撃した。「苦しい生活が続いた。真冬になっても毛織の服やオーバーを着ることができず、薄い木綿の服のまま寒さに震えながら作業する者もいた」(日本鉄道工事請負史)。米が高く、家庭で蒸しパンをつくることが流行。毎日二食はこの蒸しパンですごした、という。「ことに女性の働きぶりがめざましく、セメント一樽50貫(200キロ)を2人で運ぶ人もいた。コンクリート練りやトロッコ押しもほとんど女性がやった」。

 佐伯線工事直後で、作業員も作業に慣れ、効率が良かったのが幸いした。作業員は蒸しパンをかじりながら自然と戦った。しかし、物価高騰は止まるところを知らず、業者は資材や労賃に苦労し、労働者も集まらず、工事を解約し、国直轄で再開した区間(4、5、6工区)も出た。

大正9年11月、佐伯~神原開業

 さまざまな要因に苦しみながらも工事は進む。第1工区は中生層のもろい岩盤に苦しむ。切り通しの崩落で線路移動、上岡隧道の落盤(大正8年2月26日)などで竣工が80日間延びた。2工区は久留須川に沿い南下する。簾山隧道(311.8M)は堅く、一日15.2センチしか進まない日もあった。神原(ごうのはる→現直川)まで8年12月12日に竣工。佐伯~(4.6km)~上岡~(6.4km)~直見~(4.8km)~神原間は9年11月20日に開業。豊州線に編入された。

連続する1000分の20勾配

 ここからが北線最大の難工事。3区は山裾をぬい、後半地形が険しくなると切盛でしのぎ、隧道は7カ所。地質はもろく、8年12月30日には切取部分で6万立方メートルが崩落、竣工は7カ月遅れた。

 4工区は大正6年12月に着手した。子ども連れの作業員もおり、重岡村は工事従事者の子弟教育のため三本谷分教所を設置して、手厚い支援をした。が、物価高騰で工事が進まず業者は、8年7月に途中で手を引く。9年1月国の直轄工事となった。佐伯側から1000分の20勾配の連続。分水嶺となる第1大原トンネル(521M)は削岩機を投入した。延岡側からも掘り進めたが、逆勾配になるためポンプ排水、ずり土は軽便機関車で搬出した。

☆物価高騰~資材労賃問題発生

 なんといっても、この物価高騰はすさまじかった。企業は大戦景気で利益は急増。成金の続出したが、大戦景気は輸出品の暴騰によるもので、食料をはじめ国内消費物資の値上がりは遅れ、賃金も低水準を続けた。繊維穀類は6年から高騰した。

 国内の物価指数は大正3年=100▽4年=102▽5年=122▽6年=154▽7年=202と、4年間で2倍。6年から7年にかけての値上がりがすさまじい。

 賃金指数は大正3年=100▽4年=99▽5年=102▽6年=117▽7年=153。
賃金の上昇は物価に追いつかなかった。

 日豊北線の工事でも、この影響は大きく、工事の材料の高騰、作業員の賃上げで、請負業者自体がもたなくなると、4工区(小林組)、5工区(大倉組)、6工区(大倉組)で業者が解約した。
 ちなみに作業員の一日賃金(最低-最高)は

▼6年度=男45銭-80銭、女30銭-60銭
▼7年度=男50銭-1円10銭、女40-75銭
▼8年度=男75銭-2円30銭、女55銭-1円50銭

 6年から8年にかけて、3倍に跳ね上がった。しかし労働条件の厳しい山間部とあっては、上げてもなかなか人は集まらなかった。モノの値段も急騰しており、作業員にはつらい日々だった。

 4工区全体の竣工は大正11年6月だが、早めに完成していた同工区の佐伯寄り部分、神原~重岡駅間は11年3月26日に開業した。(※11年5には宮崎から大分に向かう久邇宮殿下(皇太子=昭和天皇=の后)が通られるとあって、急ぎ開業したのかもしれない。久邇宮は宗太郎を歩かれたという)。重岡から南は下り勾配になる。

県境の宗太郎越えにも槌音

 5区工区は重岡の南から宗太郎信号所までの区間5キロ。大正7年2月着工した。山が険しく、12の隧道を抜き、2つの橋を架ける。しかし資材を運ぶべき、道路は狭く、県境で人家(※集落は宗太郎、鐙ぐらい)も少なく、集めたい地元労働者も思うにならない。その上に思いもよらぬ物価変動の三重苦。請負業者が8年10月に解約(6工区も同様)し、9年7月国直轄工事で再開するまで“空白の8カ月”を生んだ。豊後土工が姿を消し、4~6区が直轄工事になると、なかなか労働力が集まらない。金沢や沖縄からも集めたが、それでも足らない。労力確保に重岡村に村民の出夫を要請。村では各区に出夫を割付け、1日平均17人、延べ1530人が工事に従事した。同村には木浦鉱山があり、建設作業に馴れた人が多かったのかもしれない。
工事区間の保守も大変だったろう。当時、5~9工区の拠点は延岡に置かれ、工事材料はトラックや荷馬車を使い国道を運んだ。竣工は12年6月10日。

山腹崩壊で線路変更

 6工区は宗太郎停車場から南へ北川、鎧川に沿って、山腹を走る。ここも請負工事解約の後、国直轄で12年12月15日に完成した。日豊線最後の工事区間になる。崖際を切り開き、渓谷を渡る険しい区間だ。隧道は6カ所、橋は3カ所。第4宗太郎隧道付近は風化した粘土を含んでおり、大正12年4月29日に山腹が崩壊した。線路変更を行い、宗太郎桟橋を設けた。この変更などで6カ月遅れた。

☆宗太郎“村”

 工事が始まった頃、宗太郎には5軒の家族14、5人が暮らしていた。国道沿いには飲食店と宿屋を兼ねたあづまやがある。主人の河野角太郎氏は『宗太郎村は元禄6年ごろから始まった。この付近は約3里四方、官山で藩政時代竹田の知事公から番人を命じられ、ここに居住した平家の落人洲本宗太郎にちなんだ名』という。

 明治27年に国道が抜ける前は重岡の停車場のあたりまで幅2尺ない小道しかなかった。延岡方面には、1里ほど下ったところの鐙(あぶみ)集落があり、川船の便があった。鐙の西には学校があり、宗太郎の子どもたちも、そこに通っていた、という。

 大正7年に鉄道工事が始まると、宗太郎の様子は一変する。工事の作業所が設けられ、鉄道工夫や人夫の宿舎となるバラックが建ちはじめる。その数は14棟から15棟に達した。これまでの飲食店と宿屋を兼ねた2階建てのあづやまと一緒になって、立派な山間の小集落になった。

 鉄道開通後は、初めから居た5軒の家族と新設の宗太郎信号場に勤める駅長以下4人の駅員きり。再び寂しい宗太郎に戻った。

大正12年6月開業に間に合わず

 鉄道省は当初12年6月の日豊線開通を予定していた(※その後12年10月改正時に延期、結局12年12月開通)だけに、最後まで残った6工区での隧道山腹崩壊に関係者は頭を痛めた。
 7工区は6工区から市棚までの3.6キロ。8年2月15日に着工した。山麓に沿ってカーブが続く。地滑り崩壊対策の土砂切り取りや市棚隧道の偏圧対策などで、351日延期したが、11年1月31日に竣工した。

延岡~日向長井、市棚間、ひと足早く開業

 8工区は市棚から日向長井まで距離8.7キロで、4隧道と2橋梁を含む。8年6月に着工。10年8月に竣工した。一部切取区間で崩壊が起きたため線路変更。北川橋梁は難工事と予想されたが、順調に進み、予定期日前に竣工した。9工区は日向長井から延岡まで。8年7月に着手した。可愛、和田越隧道の地質が軟弱なため、工事に苦心したが、10年9月に竣工した。

 日豊南線工事(※7工区・土々呂~延岡は10年7月に竣工)に引き続き、日豊北線の延岡寄りの区間は10年8月、9月に相次いでで竣工した。宮崎線・延岡駅の営業開始が11年5月1日。この時にはすでに、延岡~日向長井~市棚は完成していた。工事が進められていた宗太郎方面への建築資材の運行などに当てられていたのかもしれない。

 延岡~日向長井間は11年10月29日、日向長井~市棚間は12年7月1日に開業、延岡まで通じていた宮崎本線の延長区間として営業を開始した。

大正12年12月15日、全線開通

 最後は、宗太郎6工区の工事に全力が投入された。崩落などで遅延したが、大正12年12月15日に重岡~市棚間が開通し、日豊北線が完成した。工費は当初予算704万円を大きく上回る1157万7000円。1キロ当たり19万8240円。(南線759万9000円、キロ9万790円)。現在の物価がほぼ千倍と換算すると“万”を“億”に変えればいい。単純換算でもキロ19億円。いかに難工事だったかが分かる。(※昭和56年に完成した九州自動車道宮崎線・えびの~宮崎間は1239億円。1キロ当たり15億円)。作業員は蒸しパンをかじりながら自然と戦った。開通式で種田虎雄門司鉄道局長は「今や山岳難関は開かれ、人工をもって自然を征服」と言い切った。

 これで、小倉―大分―宮崎―吉松を結ぶ東九州幹線が完成。これまでの「豊州本線」(小倉~大分~佐伯~重岡)」と「宮崎本線」(市棚~延岡~宮崎~吉松)を改め「日豊本線」と命名した。


改訂2001.12.15

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