日豊南線
南線建設
延岡~宮崎

★日豊南線(延岡~福島)69.9km
   
        区間   着工  竣工  営業開始
   延岡  ┓             ┓
       ┃             ┃T11.5.1
   南延岡 ┃7工区 T8.8.25 T10.7.25 ┫
       ┃             ┃
   土々呂 ┫             ┃
       ┃6工区 T8.3.1  T9.6.23 ┃T11.2.11
   門川  ┃             ┃
       ┫             ┃
   富高  ┃5工区 T7.5.20 T8.12.10 ┫
   (日向市)┃             ┃
   岩脇  ┫             ┃T10.10.11
   (南日向)┃4工区 T7.5.20 T9.2.31 ┃
   美々津 ┫             ┫
       ┃3工区 T7.4.15 T9.12.31 ┃
   都農  ┫             ┃
       ┃             ┃T10.6.11
   川南  ┃2工区 T6.4.12 T8.10.31 ┃
       ┃             ┃
   高鍋  ┫             ┫
妻     ┃             ┃
  三納代 ┃1工区 T6.4.12 T8.6.14 ┃T9.9.11
  (新富) ┃             ┃
   福島  ┛             ┛
   (広瀬) ┓           ┓県営鉄道買収
       ┃県営鉄道開業 T2.12.25 ┃T6.9.21
   宮崎  ┛           ┛
   
   
佐伯~延岡~福島

 日豊線は1892年(明治25年)の鉄道敷設法予定線で『福岡県下小倉ヨリ大分県下大分宮崎県下宮崎ヲ経テ鹿児島県下鹿児島ニ至ル鉄道』として、建設が進められ、順次開業する。

 1916年(大正5年)には、北側が豊州本線として佐伯まで、南側が宮崎本線と宮崎県営鉄道で福島(→広瀬→佐土原)まで通じた。残る区間、佐伯―延岡―福島が最後の工事となる。

(※当初の計画線とは若干の変更が生じた。北では有力案だった大分―犬飼―三重―小野市―延岡ルートが、大分―臼杵―佐伯―延岡に変更。南も吉松―小林―高岡―宮崎ルートが吉松―小林―都城―宮崎に。いずれも政治的国防的配慮で、鉄道の距離は延びるが、都市を結ぶルートとされた)

第37帝国議会で予算成立

 大正4年末開会の第37帝国議会で、宮崎佐伯間鉄道として予算の成立(成立は年明けの5年)をみた。ついに佐伯宮崎間が予定線1期線に編入された。便宜上、延岡を境に佐伯~延岡を「日豊北線」(大分建設事務所所管)、延岡~福島を「日豊南線」(鹿児島建設事務所所管)として工事に入った。

山手線VS海岸線

 日豊南線は宮崎から日向灘に沿って北上し、高鍋、富高を経て延岡に至る83.7キロの鉄道。予測線は、鉄道院の佐橋重恭技師が明治43年1月から8月にかけて行ったものを基にした。

 1916年(大正5年)4月から実測に入る。県営鉄道福島駅から海岸線を北に直進するか、県営鉄道妻駅から木城、川南を回り都農に出る山手線にするかを比較し、福島駅から北進する全長69キロの海岸線案を採用した。予測線では細島を貫く案が町中の富高新町にずらされた程度で、ほぼ予測線に準じた。細島から富高へは臨港線(→細島線)を敷設。

 
福島起点に北上、51ヵ所の橋梁に挑む

 福島~延岡間の青写真が浮かび上がる。日豊北線がトンネルを重ねた山岳工事だったのに対して、南線の主体は橋りょう工事になる。橋りょうは51カ所、総距離3661メートル。最長は九州最大といわれた小丸川(おまるがわ)橋りょうで805メートル。トンネルは3カ所、750メートル。停車場は11駅を新設する。

7工区に分け、大正6年4月着工

 第1工区は県営鉄道の福島駅から分岐し高鍋までの区間。1917年(大正6年)4月12日起工した。平坦な田園の中を走るため、築堤用の土砂運びに苦労し、福島~一ツ瀬川まで、営業線に軽便線を敷いて運んだ。橋りょう工事は10カ所あり、一ツ瀬川橋りょうは482.5M。水害のため、75日間竣工が延びた。1919年(大正8)年6月14日竣工、1920年(大正9年)9月11日営業運転を開始した。

小丸川橋梁工事に最新鋭操重車投入

 2工区は、高鍋から都農まで。平坦線が続いたが、最大の難関は小丸川橋りょう(805M)の架橋工事。35本のピーア建設は川底の岩盤が深く、その1本1本が難工事だった。27.3トンの橋桁は小丸川の保護林で工事場所が狭く、花ヶ島駅(宮崎神宮)で組み立て、毎日2、3連づつ高鍋に運び、最新鋭の大型操重車で架けていった。この国鉄浜松工場で新造した8輪ボギー車の活躍で、小丸川橋りょうは完成した。

☆山手線にこだわるる有吉知事
~県営鉄道売却作の高等戦術か。

 海岸線案に決まるまでには、ひと悶着あった。有吉忠一知事が山手線に固執したからだ。政府から金を借り、県債を募集して作った県営鉄道(宮崎~福島~妻)だけに、全部国に買い上げて欲しい。海岸線案で宮崎~福島だけ買い上げになると、残る福島~妻は県営鉄道として残り、県は借金を返し続けなければならない。貧乏な県にとって、金を返し続けるのは大変なのだ。

 鉄道院は海岸線案に固まりかけていたが、有吉知事は大正5年12月15日、なおも山手線を要望する意見書を出した。県営鉄道の全線買いあげを願ったのだ。軽便法を利用し、いち早く鉄道建設を行った有吉知事だけに、海岸線案の有利性は分かっていたハズ。この山手線要望は政治的駆け引きで、福島~妻も国に買い取らせる有吉知事の高等戦術だろう。この戦術はうまくいき、県営鉄道全線を国が買い取ることになり、日豊線は福島から北上、福島~妻は妻線として存続させることにした。全部まるく収まった。(※買収は大正6年9月)  

 第3工区の着手は1918年(大正7年)4月。1、2工区に1年遅れて開始された。都農から海岸線を直線に北上する。比較的に順調な工事が続く前半に対して、美々津駅を越え、美々津隧道を抜き、耳川を越える美々津橋りょうと続く後半は難工事になった。

美々津橋梁と隧道の難工事

 美々津橋りょうは洪水を考慮して設計変更し、高さを上げた。その分橋脚の基礎部分の深さは深くした。カーブが続く美しい橋だ。美々津隧道は岩が硬く、一日60センチしか掘れず、豪雨のため宮崎側が土砂崩壊するなど、難工事となった。竣工は184日延期。(※美々津駅は街中から南へ1キロはずれた場所に設置された。当時の鉄道技術で耳川を渡るには、橋りょうの場所をまず決めざるを得ず、必然と駅は南にずれてしまったのだろう)

難工事に労力不足、インフルエンザ追打ち

 続く4工区は美々津橋りょうの先から岩脇へ向かうわずか3キロの区間だが、海岸まで迫った山との、わずかな空間を国道と寄り添うように鉄路を開く。権現隧道、遠見隧道を抜き、高い築堤と切取でしのいだ。
 5区は岩脇を経て富高へ向かう。国道に近いので、発破作業には気を抜けなかった。岩脇から北側には7万立方メートルの大築堤を築いた。(※撮影の名所です)これより先は財光寺の平原(※ここに昭和4年海軍富高飛行場が建設される)を突っ切る平坦線。塩見川を渡り、かつては一時宮崎県庁も置かれてた富高の中心街へ。

 5工区は1919年(大正8年)12月の竣工。3工区が1920年(大正9年)12月=6カ月遅れ=、4工区が1920年(大正9年)2月=6カ月遅=と大きく遅れたのに対して、70日の遅れで仕上げた。経済状況で労働力不足、さらにインフルエンザが追い打ちをかけ、苦しい作業が続く。
 竣工区間は、宮崎本線の延長区間として順次開業した。▼福 島~高 鍋(T9.9.11開業) ▼高 鍋~美々津(T10.6.11) ▼美々津~富 高(T10.10.11)

☆物価高騰に苦しんだ建設工事

 このころ第一次世界大戦(大正3~7年)に伴う物価高騰はすさまじく、1918年(大正7年)には全国で米騒動が起きた。米はこの年に急騰した。8月には延岡でも米騒動が起きるほど。元岩脇村議・児玉敬治は「第一次大戦当時の好況の反動で、全国的に不景気。人々はお金のある仕事があれば飛びついていった。そんな背景があったから、岩脇村では鉄道用地の買収にだれも反対しませんでした。土地代が入ること、その工事で働いて賃金が入ることで、むしろ喜んで賛成した」(日向市史)という。

 とはいっても、鉄道建設の請負業者も資材費、労賃が跳ね上がり、苦心した。国も2回~3回の請負金の引き上げを実施したが、物価上場には追いつかなかった。下請けには、さらにつらい工事となった。

 日豊北線のような契約解除が出なかったのは幸い。ただ1919年(大正8年)7月23日には幸脇で労働争議が起きた。鉄道工事に従事していた朝鮮人労働者40人がストライキを行った。賃金問題がからんでのストと思われる。こうした労働力の低下、インフルエンザ、さらには水害も重なり、竣工時期をオーバーする区間も出た。

1922年(大正11)、鉄路は延岡へ

 6工区は門川を経て、土々呂までの8キロ。1919年(大正8年)3月に着手した。国道に沿った平坦線で、五十鈴川、鳴子川橋梁工事を含むが比較的容易だったという。予定より20日早く、大正9年6月に竣工した。(※まだ3工区が美々津で苦労していた時期に、6工区は工事を打ち上げた)

 7工区は土々呂から南延岡を通り、五ヶ瀬川を渡り、終点延岡まで9.7キロ。五ヶ瀬川橋梁は日豊南線中、小丸川に次ぐ2番目の鉄橋で、橋脚の基礎には井筒を沈下させた。この工事中に洪水に見舞われ、仮橋が流れるなどの被害があったが、期間内に完了した。1921年(大正10年)7月25日に完成。南延岡までは1922年(大正11年)2月11日に開業した。延岡開業は5月1日。…5年1カ月の日時をようして、日豊南線は延岡まで開通した。総事業費は759万9027円。

1923年(大正12年)12月15日、全線開通

 延岡―佐伯間の日豊北線では、宗太郎越えの難工事が続いていた。当初、鉄道省では大正12年10月のダイヤ改正に間に合わせるつもりだったが、崩落などで遅延し、最後の重岡―市棚が完成したのは大正12年12月15日だった。ここに小倉―大分―宮崎―吉松を結ぶ東九州幹線が完成し、「日豊本線」と命名された。


☆日豊南線の開業状況☆
県営鉄道開業
1913.12.15
高鍋開業
1920.9.11
美々津開業
1921.6.11
富高開業
1921.10.11
南延岡 開業
1922.2.11
現在駅名
2001
福島→
次郎ヶ別府
 
花ヶ島
宮崎
T2.12.15
県営鉄道開業
高鍋
三納代
広瀬
次郎ヶ別府
 
花ヶ島
宮崎
T9.9.1
高鍋開業
美々津
 
都農
川南
高鍋
三納代
広瀬
次郎ヶ別府
 
花ヶ島
宮崎
T10.6.11
美々津開業
富高
 
岩脇
美々津

都農
川南
高鍋
三納代
広瀬
次郎ヶ別府
 
花ヶ島
宮崎
T10.10.11
富高開業
南延岡
 
土々呂
門川
富高→
 
岩脇→
美々津
 
都農
川南
高鍋
三納代→
広瀬→
次郎ヶ別府→
 
花ヶ島→
宮崎
T11.2.11
南延岡開業
延岡
南延岡
旭ヶ丘
土々呂
門川
日向市
財光寺
南日向
美々津
東都農
都農
川南
高鍋
日向新富
佐土原
日向住吉
蓮ヶ池
宮崎神宮
宮崎
H13(2001)
現在

国道3号VS日豊線
駅馬車→乗合自動車→汽車へ

 宮崎県の道路網は比較的整備が進んでいた。鉄道が無く、駅馬車が唯一の交通機関だったのだから、当然といえば当然。県も少ない予算から、幹線系の整備に回していた。明治18年(1885)2月には国道36号線が延岡~富高~高鍋~宮崎に制定された。(※大正8年に国道3号に改称)県は明治20年に道路改修5カ年計画を策定し、主要国道の整備に本腰を入れる。18万7080円(3分の1は国補助)を投入する。

 整備を進めるうちに、美々津~富高、宮崎~高鍋間で予算不足になる。重要道路なので、予算をやりくりしながら、なんとか整備を完了させた。(※明治23年には国道36号改修整備で県会議員20人が辞職する事件も起きている)

駅馬車大国“宮崎”

 これに合わせ、駅馬車の数も飛躍的に増える。▼明治19年=2台▼明治22年=3台▼明治28年=99台(~国道の改修進む~)▼明治31年=319台▼38年=386台▼44年=489台
 駅馬車の駐車場が各地に設けられた。延岡~土々呂~富高~美々津(耳川の渡し有)~都農と各停車場で乗り換えねばならなかった。延岡を朝6時に出ると、都農で昼12時ごろだった、という。宮崎着は夕方。延岡から宮崎へは歩いて2泊3日だったので大幅な短縮だ。(※まだ駅馬車の運賃は高く、一般の人は徒歩が主だった)

 明治41年日豊線の実地調査を行った鉄道院建設部長野村博士に随行した那波光雄大分建設事務所長は「宮崎は道路が良くて、客馬車がすでに定期制度が完全に行われ、さすがに鉄道のないところだけのことはある」と述べている。

大正時代、乗合自動車登場 大正に入ると乗合自動車が登場する。宮崎自動車運輸組合の運行表(大正2年6月)によると、上り=宮崎7:00→福島着7:50/福島発7:55→高鍋着8:35/高鍋発8:40→美々津着10:10▼下り=美々津発12:00→高鍋着1:30/高鍋発1:35→福島着2:15/福島発2:20→宮崎着3:00

 大正9年3月には県営自動車による定期運行が開始されたのだ。県はドッジ号(6人乗り)3台、フォード号(12人乗り)4台を導入。延岡~高鍋、宮崎~高岡、宮崎~本庄の3路線で運転を始めた。

 運賃は馬車の3~4倍で▼延岡~土々呂=70銭▼延岡~富高=1円70銭(※馬車は40銭)▼延岡~美々津=2円50銭▼延岡~都農=3円30銭▼延岡~高鍋=4円50銭▼延岡~福島(広瀬)=5円50銭。ここで県営鉄道と連絡する。

 利便性と物珍しさで乗客もつき、初年度は黒字。しかし、その後は第一次大戦後の不況で首がまわらず、県も緊縮財政に転じ、大正11年3月で廃止となった。南延岡まで延びた日豊線にバトンタッチした(※この後、延岡~宮崎間に、民間の日の丸バス、泉亭バスなどが登場してくる)。延岡~宮崎間の所要時間は徒歩で2泊3日→駅馬車半日→乗合自動車5時間→汽車2時間半と短縮された。料金も汽車で1円33銭。自動車の4分の1になった。



改訂2002.8.15

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