大正4年末開会の第37帝国議会で、宮崎佐伯間鉄道として予算の成立(成立は年明けの5年)をみた。ついに佐伯宮崎間が予定線1期線に編入された。便宜上、延岡を境に佐伯~延岡を「日豊北線」(大分建設事務所所管)、延岡~福島を「日豊南線」(鹿児島建設事務所所管)として工事に入った。 山手線VS海岸線日豊南線は宮崎から日向灘に沿って北上し、高鍋、富高を経て延岡に至る83.7キロの鉄道。予測線は、鉄道院の佐橋重恭技師が明治43年1月から8月にかけて行ったものを基にした。 1916年(大正5年)4月から実測に入る。県営鉄道福島駅から海岸線を北に直進するか、県営鉄道妻駅から木城、川南を回り都農に出る山手線にするかを比較し、福島駅から北進する全長69キロの海岸線案を採用した。予測線では細島を貫く案が町中の富高新町にずらされた程度で、ほぼ予測線に準じた。細島から富高へは臨港線(→細島線)を敷設。
第3工区の着手は1918年(大正7年)4月。1、2工区に1年遅れて開始された。都農から海岸線を直線に北上する。比較的に順調な工事が続く前半に対して、美々津駅を越え、美々津隧道を抜き、耳川を越える美々津橋りょうと続く後半は難工事になった。
6工区は門川を経て、土々呂までの8キロ。1919年(大正8年)3月に着手した。国道に沿った平坦線で、五十鈴川、鳴子川橋梁工事を含むが比較的容易だったという。予定より20日早く、大正9年6月に竣工した。(※まだ3工区が美々津で苦労していた時期に、6工区は工事を打ち上げた) 7工区は土々呂から南延岡を通り、五ヶ瀬川を渡り、終点延岡まで9.7キロ。五ヶ瀬川橋梁は日豊南線中、小丸川に次ぐ2番目の鉄橋で、橋脚の基礎には井筒を沈下させた。この工事中に洪水に見舞われ、仮橋が流れるなどの被害があったが、期間内に完了した。1921年(大正10年)7月25日に完成。南延岡までは1922年(大正11年)2月11日に開業した。延岡開業は5月1日。…5年1カ月の日時をようして、日豊南線は延岡まで開通した。総事業費は759万9027円。 1923年(大正12年)12月15日、全線開通延岡―佐伯間の日豊北線では、宗太郎越えの難工事が続いていた。当初、鉄道省では大正12年10月のダイヤ改正に間に合わせるつもりだったが、崩落などで遅延し、最後の重岡―市棚が完成したのは大正12年12月15日だった。ここに小倉―大分―宮崎―吉松を結ぶ東九州幹線が完成し、「日豊本線」と命名された。
☆日豊南線の開業状況☆
改訂2002.8.15 |