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宮崎県営鉄道
日豊本線
明治~大正

県営鉄道妻線
                 鉄道院
妻 T3.6.1          ┓妻軽便線
      |        ┃(T6.9.21)
黒生野   |        ┃→妻線
 T3.6.1  |        ┃→廃止
  佐土原(西佐土原)    ┃(S59.11.30)
  T3.4.26|        ┛
     福島(広瀬、現佐土原)
        T2.12.15   ┓妻軽便線
  次郎ケ別府(現日向住吉) ┃(T6.9.21)
        T2.12.15   ┃→宮崎線
    花ヶ島(現宮崎神宮) ┃→日豊線
        T2.12.15   ┛
     宮崎
  ┏      T3.11.20  
 鉄┃T4.3.20  川口(貨物線)
 道┃    
 院┃  大淀(南宮崎)
 の┃T4.3.20 
 委┃  清武 宮崎軽便鉄道
 託┃ T5.4    (のち宮崎交通)
 営┗ 大久保   ○内海
 業  (仮乗降場)
 (T4.3.20~T5.10.24営業)
国の鉄道到達まで待てない。県が自前で建設

 宮崎県営鉄道は、宮崎~妻まで26.5キロ。名前は軽便だが軌間は国鉄と同じ1067ミリを用いた。明治44年、政府の低利子資金を借り入れ、鉄道敷設に着手。大正2年12月、宮崎~福島(広瀬、現佐土原)が開通、営業を開始した。続いて、福島~佐土原(西佐土原)着工、佐土原~妻は同3年3月完成になる。

日豊線建設に合わせ、国は宮崎~福島間を買収。大正6年9月21日、鉄道院移管。県の請願で福島~妻も国有化され、同線は妻線となる。

鉄道建設ブーム

 全国的な鉄道建設ブームの中で、宮崎にも機運が盛り上がり始めた。明治39年(1906)1月には日向鉄道期成同盟会が設立され、活動を開始した。しかし、県経済力の乏しさ。全国各地で民鉄が誕生するのに、残念ながら宮崎にその力がなかった。

弱い経済基盤

県力は全国最下位といってよい。廃藩置県で誕生した宮崎県だが明治9年8月に廃止、鹿児島県に統合された。さらに西郷隆盛らが起こした西南戦争の戦場になり、疲弊した。

16年5月に再び宮崎県として独立するが、失われた7年は大きく、鹿児島の従属県から脱却するには時間がかかった。経済基盤は貧弱だった。鉄道どころではなかったのかもしれない。

救世主「軽便鉄道法」公布

 民鉄法(私設鉄道法)で鉄道を敷設するには、資本力がかかる。明治43年に公布された「軽便鉄道法」で、経営者の資格、施設の基準(軌間、勾配、曲線など鉄道の規格制限)や資金の調達方法などの規制を軽減。認可手続きも簡略にした。これで、地方での鉄道建設の道が開けた。明治44年には「軽便鉄道補助法」も公布され、政府より、補助金(※建設費の5%を10年間)の支給が受けられるようになった。宮崎でも44年9月、民間による宮崎軽便鉄道会社(のち宮崎鉄道、戦後宮崎交通)が設立された。大淀―内海の軽便鉄道建設を目指した。

県営鉄道のパイオニア有吉知事赴任。役者は揃った

 一方で、宮崎県も鉄道建設に乗り出す。運が良かったのは明治44年3月、有吉忠一知事(13代)の赴任だ。有吉は当時としては、最も鉄道、交通に敏感な官僚だ。千葉県知事時代(11代・明治41年~43年)には、国内初の県営鉄道を造った経歴を持つ。資金は国から借り県債を起こし、建設には陸軍鉄道連隊を使い、費用を抑える手案は見事とというほかない。その有吉が来た。千葉で会得した、県営鉄道建設を宮崎でも実施する。

『軽便敷設ハ機ニ適シ…』

 明治44年11月、有吉知事は県営鉄道について『宮崎大分間鉄道ハ政府ノ予算ニ計上セラレズ 何レノ日ナルカ殆ント予想シ難キ状況ニ在リ 先ツ宮崎妻線ノ如キ物資豊富ニシテ行旅頻繁ナル地方ニ軽便鉄道ヲ敷設スルハ 最モ機ニ適シ…』と述べた。平たく言えば、宮崎~大分の日豊線は国の予算がつかず、いつになるかわからん。まず、宮崎~妻間で軽便鉄道を造ろう…と述べた。  当時は大分まで鉄道が完成(明治44年11月)したばかり。大分~佐伯間は予定線1期線に組み入れられ、実測中。南は吉松から宮崎までの「宮崎線」の工事が始まったばかり。大分宮崎鉄道は、まだ難しく、宮崎~福島~妻の軽便鉄道が、県の財政力でできる精一杯だった。(※大分宮崎間が予定線1期線に入ったのは大正5年3月のことだ)

明治45年、妻線免許認可

 明治45(1912)年1月 宮崎~妻、油津~飫肥の軽便鉄道敷設を申請。2月10日には、宮崎(宮崎町)~妻(穂北村)間、飫肥~油津間の軽便鉄道を県営事業として免許を受けた。有吉知事は、吉松~都城~宮崎の鉄路が繋がれば、県営妻線は国に買い上げてもらうハラづもりだ。妻線は軽便ながら、鉄道院と同じ1067ミリ軌間を用いた。宮崎~福島(→広瀬→佐土原)間は日豊線の部分建設の意味合いもあるのだ。もちろん、鉄道院の全面協力による建設だ。大正元(1912)年9月26日、妻線建設に着工した。総事業費68万7754円69銭1厘。

☆有吉忠一(ありよし・ちゅういち)

明治6(1873).6.2~昭和22(1947).2.10 京都生まれ。山県有朋に新任された官僚。千葉県知事(11代知事1908~1910)から朝鮮総督府総務部長官を経て、1911年に13代宮崎県知事に就任。のち神奈川県知事、兵庫県知事、横浜市長、日本商工会議所副会頭、勅撰貴族院議員。24代宮崎県知事、有吉実は実弟。日本郵船の社長・会長、有吉義弥は息子になる。

宮崎に知事で着任した時は38歳(※というと、千葉県知事時代は35歳、わ、若っ)。持病の脊髄病の療養ともいわれたが、県営鉄道の敷設、二原やうるしの原などの開墾、細島港や油津港の改修、西都原の学術発掘、奨学金制度の創設など。4年半でこれだけやるとは見事。

 特に県営鉄道は千葉時代の手案(千葉に陸軍鉄道連隊を誘致、県営鉄道敷設は訓練を兼ねて鉄道連隊に委託、一部では車両、運転も委託…)をたたき台に、さらに昇華させた。すぐに日豊線の一部になると見込める妻線は軽便規格ながら1067ミリ軌間を使用、鉄道院・宮崎線(吉松~都城~宮崎)が完成すれば接続運転が可能に設定。国の買い取りを念頭に置いた。

一方、すぐには国の買い取りの可能性が低い飫肥線は762ミリを使用。機関車は日露戦争後も朝鮮で使用されていた鉄道連隊の中古車を引っ張ってくるなど、徹底的に安く上げた。(千葉県知事時代の縁で相当鉄道連隊につてがあったのか。朝鮮総督府での勤務も効いたのか)

 今の知事もこの半分でもやってくれればいいのだが…

県庁内に鉄道管理所

 建設工事の進ちょくに合わせ、県は鉄道運営の準備に入る。大正2(1913)年5月21日、県営軽便鉄道管理所(のち県鉄道管理所)を設置した。県庁内に運輸長から踏切番まで105人を置いた。
 大正2年7月20日、飫肥線が完成した。そして、妻線の宮崎~福島間が12月1日に完成した。地形が平坦で、工事の進ちょくも早かった。石崎川と三財川の鉄橋工事は地盤の軟弱と作業員の経験不足などで難航した、という。業務訓練を重ね、12月15日営業を開始した。大正3年4月26日には福島~佐土原(西佐土原)が延伸開業、同3年6月1日に佐土原(西佐土原)~妻の全線が開業する。

認可後、2年で完成開業

 宮崎県内でも離れた宮崎、飫肥の両地方で鉄道建設に着手し、認可後2年で完成できたのは、驚異というほかない。(※これができるのが軽便なのだが…) 有吉知事の手案はみごとだ。(※この10年後、大正12年日豊線の全通が12月15日になったのも、何かの縁だろうか)

 駅は次の通り。右側に変遷を加えた。

県営鉄道 鉄道院買収 T6.9.21 妻線廃止 S59.12.1
宮 崎   (T2.12.15開業)    
花ヶ島   (T2.12.15開業) →宮崎神宮 S29.11.10改称  
蓮ヶ池   (T2.12.15開業) →T6.9 廃止  
次郎ヶ別府(T2.12.15開業) →日向住吉 S10.10.1改称  
広 瀬  (T2.12.15開業) →T9.9 廃止  
福 島  (T2.12.15開業) →広瀬(T9.9.11 開業) →佐土原(S40.7.1改称)
佐土原   (T3.4.26開業) →西佐土原(S40.6.1改称) →S59廃止
黒生野   (T3.6.1開業) →S59廃止
妻      (T3.6.1開業) →S59廃止

【車両】機関車3 客車9 貨車16(国有化時)

 機関車は蒸気機関車で3両。鉄道省の中古で、明治9年に輸入された英国製が2両。1Bのタンク機(23t)。現在明治村に保存されている12号とか加悦鉄道の2号の仲間だったらしい。宮崎入りした時すでに30年モノだが、妻線はこれが主力機。もう1両は米国製の小型Cタンク(15t)。これは20年落ち。大正に入り国産の名機9600形や8620形が登場したころ、宮崎にはようやく明治の機関車がやってきた。それでも本線の主力機には違いない。想像するに、妻線の客車牽引は1Bタンクが主力で、動輪の小さいCタンクは、貨物線川口支線用の気がする。客車は当初5両で、南海鉄道の中古を入れた。同時に日南の飫肥でも鉄道建設を進めており、安くあげるために、費用を切り詰めて、開業にこぎつけた。

 県営鉄道は大正3(1914)年6月24日、宮崎貨物線の敷設免許を受け、宮崎町瀬頭字出来島に停車場をつくり、11月20日に営業開始した。2キロ弱(1マイル12チェーン)。

 鉄道院の宮崎線(吉松~都城~宮崎)建設工事も進んでいたが、青井岳の難工事が控えていた。そこで、すでに完成していた宮崎~清武の線路を鉄道院から借り受け、大正4(1915)年3月20日、運転営業を開始した。田野寄りの大久保に仮乗降場も設置するなど、県民の利用の便も図った。国への鉄道借用料は1年間500円だった。

 大正6年、県営鉄道妻線は11万余円の利益をあげ、国に買収移管された。買上げ代金は6万3106円4銭。
 そして、大正6年4月12日、福島駅から201メートル北の地点から、延岡に向け日豊線南線の建設工事が始まった。日豊線建設は最終ステージに入る。


改訂2001.12.15

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