佐伯駅 さいき(大分県佐伯市)
大正5(1916)年10月25日開業

佐伯駅  佐伯駅は大正5年10月25日、南海部郡佐伯町に開業した。大分〜佐伯64.9キロを結ぶ佐伯線の工事は明治45年2月に着手。大分→幸崎(T3.4.1開業)幸崎→臼杵(T4.8.15開業)と順次営業を開始し、残る臼杵→佐伯間も大正5年に開通した。完成後は豊州本線に編入された。

 佐伯では盛大な開通式典が行われ、町は3日間にわたり、祝賀行事で賑わった。町民4000人の旗行列はいまも語りぐさだ。記念して南海部郡連合運動会も開かれた。佐伯は、別府と同じ3等駅で、大分(2等駅)に次ぐ等級だった。駅員は90人近かった。開業翌年の大正6年3月、佐伯を起点に延岡に向けて日豊北線の工事が始まった。

 建設時に町の中心部に駅をつくることに反対したため、大手前から2キロも北にずれた。開通当時の駅前は、わずか2軒の家があるばかりの空き地だった。市の発展とともに、市街地も北に伸び、駅前も発展したが、中心街からは遠く、この不便さはいまも続いている。

 駅名は昭和37年に「さえき」から「さいき」に改称した。駅舎は昭和54年に、3億円をかけて改築された。外観は凸凹で、複雑な形。駅キヨスクは待合室の中にある。駅窓口とジョイロードは合体していて、利用しやすい。正面玄関北側にはSLの動輪が置かれている。駅南側には、駐車場駐輪場の入り口に新しい観光案内所ができた。
 <佐伯と後藤新平>
 佐伯に鉄道ができたのは後藤新平のおかげといわれている。明治43年10月、当時の逓信大臣・鉄道院総裁だった後藤が視察に訪れた。人力車から、宿舎のふとん、いす、せっけんまで取りそろえ。町民や小学生が日の丸の小旗を振る歓迎ぶり。当時大分以南の鉄道ルートは▼大分―三重―小野市―延岡と▼大分―臼杵―佐伯―延岡が競い、三重案がやや有利だったが、後藤は海岸線案を決断した。

 開業時、駅北側には転車台や矩形庫が設けられた。日豊線が開業してからは大分〜南延岡の中間地点で、機関支区が置かれた。機関車の配置はなく、乗務員のみ。大分鉄道管理局(→JR大分支社)管内では延岡・南延岡が分鉄南端の重要駅(統括駅)だったが、平成8年に宮崎総合鉄道事業部が発足したのに合わせ、市棚以南を鹿児島支社に移管。佐伯が大分支社南端の中核駅になる。13年からは新鋭885系「白ソニック」も発着。16年3月には大分〜佐伯の最高速85km/hを110km/hに引き上げる高速化工事が完了し、最大8分の時間短縮。佐伯は特急「にちりん」13往復(3往復増)「白ソニック」2往復が発着する。一日乗降は3000人。


 佐伯市は番匠川の河口地帯に開けた城下町。人口5万人。古くは佐伯氏が栂牟礼(とがむれ)城を築き、1601年に入封した毛利氏は八幡山に鶴ケ城を築いた。現在の城山は、この鶴ケ城。櫓門は江戸時代の趣を残す。“日本の道百選”にえらばれた「山際通り」には武家屋敷が残る。養賢寺、国木田独歩館が並ぶ。六月には菖蒲園が美しい。

 戦前は海軍の連合艦隊がしばしば入港し、昭和9年には海軍航空隊(水上機)が置かれ、同15年には防備隊を敷いた。鶴見や高島には砲台が建設され「豊予要塞」と呼ばれた。航空隊兵舎跡には、最近、平和記念館「やわらぎ」が建てられた。

 鉄道ファンにお薦めは、海軍航空隊跡に進出した工場の引込線跡を整備した「野岡緑道公園」。1300Mの遊歩道には90種類以上の樹木や花が植栽されている。ところどころに鉄道跡が…。
<佐伯と独歩>

 自然主義の文豪・国木田独歩(くにきたどっぽ・明治4年〜41年)が私塾「鶴谷学館」の講師として滞在したことでも知られる。明治26年から、わずか1年だが、こよなく佐伯を愛した。
 「佐伯の春先づ城山に来り、夏先づ城山に来り、秋又早く城山に来り、冬はうそ寒き風の音を先ず城山の林にきく也。城山寂たる時、佐伯寂たり。城山鳴る時、佐伯鳴る。佐伯は城山のものなればなり」。あまりにも有名な独歩の「豊後の国佐伯」の一節だ。後に「春の鳥」等の作品で佐伯を舞台に描いている。独歩は佐伯と切り離せない。現在は佐伯観光の主役だ。


(2004-03-06)

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