I T 特急「日向」
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日豊線の78626号機/1972-73年南延岡
Super Express Hyuga on the Information Technology
鉄道の開通は地方にとって単なる交通手段の増加、時間短縮ではなかった。新しい文化、情報という息吹を運ぶ魔法の鉄路だった。1923年の日豊線全通から100年。地方のおかれた状況は年々厳しくなっている。いまこそ…未来につながる鉄路の意義を考えたい…
日豊線開通
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南延岡入換
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K9門デフの48685

【日豊線全通】日豊線が開通百年を迎えた。1923年(大正12年)12月15日に重岡~市棚間が開通。小倉~大分~延岡~宮崎~吉松を結ぶ東九州の幹線が完成する。これまでの「豊州線」(小倉~大分~佐伯~重岡)と「宮崎線」(市棚~延岡~宮崎~吉松)を改め「日豊線」となった。第一次世界大戦(1914-1918)の好景気と急激な物価急騰から一転して反動の戦後不況、追い打ちをかけた関東大震災の恐慌で全国的には厳しい時期だったが、東九州を結ぶ鉄道の完成は沿線各地で祝賀ムードに包まれた。門司鳥栖間が複線化された鹿児島線と大きな格差がついたが、ようやく九州が一本の鉄路でつながった。

大正時代から戦前の日豊線を支えたのは「ハチロク」、8620形蒸気機関車だ。万能機らしく客貨に使用された。日向路の輸送力が大きくなかったせいか、速度を優先したせいか、僚友9600形は早々と姿を消したが、8620は常用された。南延岡区には10~13両の8620形が配置され、大分~宮崎で活躍した。写真は南延岡機関区の78626号機。新製配置が宮崎→南延岡で日豊線デビュー。太平洋戦争中に北部九州に転属したが、1968年に再び南延岡に戻った。1974年(昭和49年)4月の宮崎電化まで現役。構内入換に加え細島線運用で日豊線(南延岡~日向間)を快走していた。標準デフにパイプ煙突、前照灯の大型化など改造されていたが、同区の伝統で最後まで磨かれていた。

28627C59124譲りの門デフをつけ有名になった48695号機も元をただせば大正時代から戦争直後まで南延岡区を支えた機関車。1971年に早岐区から48676号機と相前後して延岡へ。全般検査で戦列を離れた78626の穴を埋めた。

48695号機が廃車になると、これも早岐から転入した28627号機が1972年から1973年夏まで活動。入換で客車を引くこともあり、その1枚。すでに細島線の客レはなく、珍しいかなと思って撮ったが、その後若松区に転属し室木線でちゃんとした(笑)客レの運用についたのには驚かされた。豊州線時代から多数の8620を揃えた大分区にも58689号機が最後まで残っていた。ちなみに九州最後のハチロクは1975年3月まで人吉区で湯前線の貨物を担当した58654号機。JR九州になって復活したが2024年3月で運行終了。大正の残り香が消えていく…(by A6)


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【更新】表紙 2023-12-15


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